八代市に、熊本県内で初めての本格的なホールとして
八代市厚生会館が設立された背景には、
ふたりの政治家の強い信念 がありました。
「当八代市が誕生いたしましてようやく昨年をもって二十数年を迎えました。その間、四大工場の生産拡張、港湾の整備などにより経済の繁栄はその諸侯をみておりまするが、さらに将来民生の安定、立派な社会をつくるためには、一面において貧乏をなくし、ために教育と文化の推進こそ大切であると考えます。
(中略)
教育ならびに文化につきましては、ややもすればこれを非経済的・非生産的なものとして反対はせざるも、熱意を欠く場合が無きにしもあらずの現状であります。
(中略)
終戦後社会の風潮はややもすれば利害の打算、非現実的観念闘争に明け暮れ合理性の行き過ぎによる情操の破壊、すなわち社会生活の中から人間性が喪失されつつあるのであります。
(中略)
私の言う市民格の向上に役立ち、市民生活の精神的豊かさをもたらし、工場に勤められる方々も一般の市民の方々も共々に明るい真の平和と繁栄を味わうことができるものと思うものであります」
「コペンハーゲン国立劇場へ参りました時のことであります。この劇場の緞帳(どんちょう)の上のところにこんな言葉が書いてあったのであります。『この劇場は単に娯楽だけのために建てられたのではない〜not only for amusement〜』娯楽のためばかりでなく、それ以上のものを求めておる、誠に意味のある言葉と思った次第であります。
(中略)
この会館でこれからおそらく市民や工場の勤労者の演劇やコーラス、あるいは学校の生徒たちの児童劇や音楽がぞくぞくと演じられることでございましょう。またある時は東京から素晴らしい楽団や歌い手の方や劇団もかけつけることでありましょう。
テレビで見る演劇ではなく、ラジオで聴く音楽でなく、生の演劇を、生の音楽を肌身で感じとる、また自分たち自身がこの舞台で演ずるといったこういう活発な創造的文化活動が、お互いの市民生活に潤いと豊かさと生きがいを与えてくれるものと私は信じます。
(中略)
都会偏重の今日の文化に対しまして、地方的な文化を向上させるひとつのモデルを天下に対して示し、そういう意味では実に意義のある建築であったと私は思うのであります」
熊本県八代郡植柳村(現・八代市植柳町)に生まれる。父は明治新田築造の功労者たる坂田貞。八代中学校(現・熊本県立八代中学校・高等学校)時代から秀才の誉れが高かった。1905(明治41)年7月、同科を卒業し、東京帝国大学法科大学独逸法科に入学。1912(明治45)年7月、同大学を卒業。
旧制第五高等学校(現・熊本大学)教授から熊本県会議員などを経て、1937(昭和12)年に衆議院議員に。1940(昭和15)年に八代市が市制施行すると初代市長に就任し、戦前2期、戦後は1955(昭和30)年から市長を2期務め、市街地や八代港の整備、八代市厚生会館の建設など田園文化工業都市政策を推進しました。
旧制第五高等学校時代の教え子に、後の総理大臣・池田勇人、佐藤栄作がいます。
昭和30年、坂田道男新市長が就任した頃、議会では市庁舎の建替え問題が焦点となっていました。
坂田市長は
「市民全体の教養、文化の向上、娯楽の提供が先であり、我々サーバント(公僕)はいちばん最後で良い」
「見方によっては、議員も執行部も“藁屋の中の名馬”と言えるかも」と、文化センター(のちの厚生会館)設立を進めました。
坂田道男の長男として生まれる。旧制熊本県立八代中学校(現・八代高校)、旧制成城高等学校(現・成城大学)を経て、東京帝国大学(現・東京大学)に進学。東大卒業後は、厚生省(現・厚生労働省)や八代市役所に勤めました。そして1946(昭和21)年に戦後初の衆議院議員選挙で初当選して以来、1990(平成2)年に政界引退するまで44年間、衆議院議員(旧熊本2区選出・連続17期)を務めました。
昭和34年1月に、岸信介改造内閣で厚生大臣(現・厚生労働大臣)として入閣し、文部大臣(現・文部科学大臣)、防衛庁長官(現・防衛大臣)、法務大臣などを歴任しました。1985(昭和60)年に、第64代衆議院議長(熊本県からは初めて)に選出され、1年半務めました。教育と国防の諸政策に詳しい「ハト派の政治家」として知られました。
